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井原小市民の広場

井原人による井原人のための井原人の・・・なんだっけ

体はアメリカでも心は井原。ここは井原のもんの憩いの場でござりゃんすけえ、ちいとばあ 井原弁で書かしゃんして下しゃんせえ。そりゃー、井原弁ゆうても そぎゃあに わからんような こたあ書きゃあしやせんけえ よそからおいでんさりゃんした方も気楽に見てつかせえなあ。

敬語はしんどうござりゃんすけえ、ざっくばらんにやらさしゃんしてくださりゃんせえ。


猪原推薦 - 井原の隠れた名所

目次


道祖渓の滝


井原富士


ニイヤマのサイコロ石


経が丸の水晶


井原八十八ケ所

井原には四国八十八ケ所に真似て一日で回れる同ミニチュアを作ったんじゃ。もう当時の人は皆死んでしもうてようわからんのじゃけど、作った人らぁの 息子さんじゃ言うてん 駄菓子屋しょうちゃった人ん 話によると 昔はそりゃ盛んにお参りがあたんじゃゆうて。まあ昔のオリエンテーリングじゃな。最近、またこの井原八十八ケ所を復活させようと頑張っとる人らぁが おてんじゃあ言うて 聞いとりゃんす。でもわしゃあ、知っとるど。今はいくつかの番所があっちこっち跳どって順番通りにゃあ行けんゆうのを。特にある番所は昔庄屋(代官?)じゃったうちの墓の傍にあるんじゃけど、これが特に尋常なコースから外れとる。あまりに ひょこしげなところにあるんで 前述の人に聞いたら、「ありゃ昔作ったときにゃあ あそこんちの側にあったんじゃけど あそこんちが家を広うしてんときにじゃまなんで移したんじゃ」じゃって。「昔ぁ、あそこん家も本気じゃって作る時にゃあ旗を振りょうちゃったんじゃけど、じゃまになって動かしちゃったんじゃ。」


妙見さん

井原の妙見さんを知っとるのはかなりの年寄りか井原の歴史通じゃねんかのう。いや、例え井原の妙見さんを知っとてもそれがかつて井原の中心じゃったなんて知るまあで。今は井原の妙見さんは井原の新町の井口の墓場の側に移されとるが、前ゃあ今の井原小学校の校庭にあったんじゃって。今は小せえ小せえ祠があって墓参りをしてん人のなかにゃあどっかのぶげんしゃの墓と思おとるもんもおるおもうけど、かつては壮大な境内を控えたぼっけえもんで、南の妙見さんとともにこの辺の信仰を集めとったんじゃって。称して北斗。昔昔の話じゃけど。


清迫の首吊り一本松(怪談?)

清迫の奥は今は市営住宅ができたりして開けてきょうるけど、さらに奥のあたりは今でもひっそりとしとるじゃろ。清迫から高屋に抜ける道を通ると、夏でもひんやりとしとるわ。ただ蝉だけが鳴いとろ。こりゃ人に聞いた話なんで自分自身確かめたわけじゃねえけえ本当かどうかよおわからんのじゃけど こんな話があるんじゃ。

井原の人じゃねんじゃけど、そのへんで人が松に紐かけて首つっとたんじゃて。通った人が見つけて消防に届けてはずしたんじゃけど、ウジがわいて腐ってしもうとったんじゃて。行方不明になってあまり日がたっとらんかったゆんじゃけど夏じゃったんで腐ったんじゃろ。捜索願いが出とったんですぐ身元がわかたんじゃて。その松の木は一本だけ下枝が出てていかにも首吊りに最適に見えるようなやつじゃったんじゃって。しばらくは花やり線香やりで見分けがついたんじゃけど。遺族が言い出したんか、山の主が嫌うたんか、消防が予防策を講じたんか、よう知らんけど根元からばっさりと切っしもうて 今はのうなっとる。わしも風が吹いて松が揺れる度に、「あ、このへんかのう?」と思いながら通り過ぎょうるうちに下草も茂り、その松がどこにあったんかもわからんようになってしもうた。


波形の鮫の歯

波形の道神様はすっかり有名になってしもうたけど。ありゃあ昔の海岸線の跡なんど。そりゃ知っとろうが。さらに昔にゃあそこは海の底でこれに堆積した大量の貝で波形の大地はできとるんじゃ。今はもう掘りょうらんが、近くにこの貝の化石を大量に掘り出してニワトリ用に売とった人がおったんじゃ。ニワトリは歯がねえけえ、かわりに砂嚢を持っとって そけえなんか固てえものをつめとるんじゃ。庭で飼うとるニワトリは普通ときたま石やらなんやら飲んどるじゃけど、この石を歯のように使こうて固え物でも食べれるいうんじゃ。でもボロイラーのニワトリゃ 狭めえ籠に押し込められとるけえ 石なんか喰機会がねえ。へえで、養鶏業者は庭の石の代わりに配合飼料に波形の貝の化石を混ぜてやっとったいうんじゃ。今は掘りょうらんけえ草ぼうぼうになってしもうたけど、ここらを掘ると鮫の歯の化石や蟹の巣の化石が出てくるんじゃ。特に鮫の歯の化石はなんとも言えん光沢があってぼっけえわあ。


井原とは

井原はイバラと読むんで。よそから来さりゃんしたぁ人ぁ、イハラと読まりゃんさりゃんすけえ

「あ、よそから来とってんじゃな」

とすぐわかりゃんす。かつて高校総体が岡山県でありゃんしてその時の来賓がどこで調べ上げたんか知らんけど、綿々と井原の歴史を読み上げ、

「この有名で歴史あるイハラの地で本大会を開催されますことは・・・」

と数回。会場中の失笑を買とってたんは本人だけ知らんのんじゃねんかのお。今度は読み仮名の振ってある井原の歴史書を読んでえな。

井原は岡山県のかつての備中地方にあって、旧後月郡部に属しとった。東を矢掛、総社、西を福山とそれらの衛星市町村、南を笠岡、北を後月の残りと川上町に接してとる。岡山は北になだらかな中国山地、吉備高原といった後期山系を背し、南に平野とそれに点々と取り残されたモナドノックを配しとる。井原はその山間部と平野部の境にあたる町じゃ。人口は平野に集中し、山間部には過疎の農村が散在しとる。

井原は人口4万にも満てん小さな町じゃが、一応井原「市」で、かつて後月郡内の町が合併したときにゃ市制が布けるぐれえの人口があたんじゃて。かつて日本の産業は安い労働賃金と環境対策費で大いに二次産業が栄えて、この町の産業構造も二次産業へと大きく移行しジーンズ生産等の繊維業を中心に栄えたんじゃて。今でも井原はジーンズの町としてPRしとる(だれが?)。その後、為替高騰や後進国の二次産業移行にとともに日本の産業の中心は三次産業へと移行し、その時勢とともに老いた町となってしもうた。しばらく前まで三次産業発展地は巨大消費地と近接しとる必要があって、東京や関西というような消費地から離れとる井原じゃあそぎゃあな新規産業が興きなんだ。

へえでもって、井原にゃ大学がねえ。岡山の教育水準は全国平均を遥かに引き離すぐれえ高けえ。現在の趨勢として大学進学率は鰻登りじゃが、大学がねえけえ若者は皆大都市へ行ってしもうた。三次産業は大都市部での雇用を生み出していたけえ、大部分の流出者はこれに吸収されてしもうた。

かくて井原は二次産業衰退、人口流出、頭脳流出の果てに過疎の町になってしもうた。

こうした問題は世界の過疎の町の共通の大きな問題となっとるみたいじゃな。年寄りは困った、困ったで済むかも知れんけど地方都市に住む若けえ者にゃぼっけえ問題じゃ。まあ、わしみたいな嫌うて住まんものもおるが、逆に都市は所謂都市問題を抱えとるけえこの問題を解決せんことにゃあ社会体制は次のステップに行けんのんじゃねえかのう。(どうして地方都市はこぎゃあな研究を自分らの視点でする各研究機関を独自に持たんの?それだけで頭脳の獲得、雇用の確保に繋がるのに)



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